カトリック逗子教会

【隅の親石】


主任司祭 細井 保路



人に勧められて、デヴィッド・ジョージ・ハスケルという生物学者が書いた本を読みました。その中にこんな一節があって考えさせられました。
「早春の晴れた朝、最初の暖かな陽の光と飛び交う虫たちに、花々が見せる自信に満ちた歓迎ぶりは、この自然界が、人間の理屈とは無関係に存在していることを思い出させてくれる。誰もがみなそうであるように、私もまた文化に縛られている。だから私は視野のほんの一角で花を見ているにすぎない。」  これを読んだときに思い出したのは、イエスさまが引用された詩編118の言葉です。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」。3月の婦人会の親睦会の日のミサで、ちょうどこの箇所が読まれました。もちろん、イエスさまがこの句を引き合いにだされたのは、神の愛を伝えるご自分のメッセージが、時の指導者たちには理解できず、受け入れられず、排斥されてしまうということを語るためでした。しかし、この大昔の詩から、もっと広い意味を読み取ることがゆるされると思います。
「隅の親石」とは、家を支える重要な石という意味です。つまり、人が無価値だと思って無視したものでも、神さまの前ではとても重要な意味を持つということになります。私たちは、大切な価値あるものを見落としているかも知れないのです。すばらしいものが見えていないかもしれないのです。普段意識にのぼらない様々なものの営みや、一見無関係に思える人たちとも、どこかで深く結びついていることを、時々思い出してみるのは大事なことだと思います。
私たちは、自分に見えないもの、理解できないものを存在しないかのように無視して生きています。つまり、自然界の大部分を無視して生きているのです。しかし、実は私たちはその自然界の一部であり、太古の昔から、進化の過程の遠い記憶までも包み込んだ、この世界の構成要素のひとつなのです。そういうことに思い至ったなら、謙虚にならずにはいられません。もちろん命を与えてくださった神さまに対しても、もっと謙虚にならなければなりません。
春を迎える自然界の様々な営みに目を向けてみましょう。私たちのちっぽけな理屈や感情や思惑などではとても太刀打ちできない命の輝きを目の当たりにすることができます。私たちの小さな頭が選択した「正しさ」よりも、もっとずっと大きな、「神の義」という言葉で聖書が語る「正しさ」に思いを馳せましょう。創造の初めに神さまが「よし」とおっしゃった、そのおおらかな響きこそが「正しさ」なのです。 いざスマホに移行しようとすると、使い慣れていたがゆえのガラ携の便利さばかりが思い浮かびます。バッテリーが長持ちするとか、時計の代わりをしてくれるとか。大騒ぎするほどのことではないのですが、この2ヶ月で、なんとか頑張って、スマホを使いこなす人たちの仲間入りをしたいと思います。
教会は、つまり私たちは、そのおおらかな神の「よし」という言葉の継承者でなければならないと思います。
(教会報誌「潮路」 第359号 2018年4月1日発行 巻頭言より)