カトリック逗子教会

【みんな神の子】


主任司祭 鈴木 勁介



弟子のヨハネは先生に忠実であろうとして、イエス様の名を使って悪霊を追い出している人をやめさせようとして、そんなことしてはだめだと言われた。私たちだって教会の中を見ても、あんなやり方は間違っていると思ってやめさせようとする、こんなようなことが色んなレベルで出てきます。そういう人に向かってイエス様は、もしそれが仲間を受け入れることを邪魔するならば、片方の腕を切り捨てろとか、片方の目を抉り出しちゃえと。勿論文字通りそうしなさいと言っている訳ではない、と思います。
それほどこの神の国に共に入るということが、大事なこと素晴らしいことなんだと、主旨としてはこういうふうに仰りたいんだろうなと。だけど、こういう言葉を聴いていても、私たちは多分一週間経つと、今日何を読んだか忘れている。それが幸いなのか不幸なのか、なんとも言えません。あんまりぐさっと心に刺さってしまうと、場合によって生きていくのが難しくなることだってあるのです。
何度も何度もこのお話も読んだリ聞いたりしてきていますが、それでも相変わらず、私たちはこの仲間を受け容れるということに関していつも難しい問題を抱えている。でも神さまの目から見ると、皆んな神の子なのだから、そして一人もどうでもいいという人はいないのだから、共に神の救いに招かれている。そのことをまずせめて時々思い出しなさい、ということでもありましょう。
昔読んだ言葉で、聖フランシスコの、ここにもこういうことを言う人が居るんだって思ったことがあります。「神様がいいと仰っているのだから、あなたが文句を言うことはない」。その人はその人、今間違っているかもしれない。でも、やがて回心し善くなる。だから一人ひとりもうちょっと大事にしなさいという意味で言ってることなのでしょう。言葉としてイエス様の厳しい言い方よりは、なんとなく心に届く言葉です。でも主旨はイエス様の仰ることと同じでしょう。
でもそれは、言うことは簡単なんですけれど、実際は難しい。生きるのは何時でも難しいわけで、せめて私たちは、人間には人間を本当に救う力はないのだ。しかし神様にはその力がおありになるんだな、そういう思いを今日新たにすればと思います。
昔作った川柳に『誰のこと? 神より怖い キリスト者』というのもあります。
(教会報誌「潮路」 第364号 2018年10月1日発行 巻頭言より)