

【ラクダね】10月10日(日)(第28主日説教)マルコ 10/17-30
主任司祭 鈴木 勁介
財産のある者が神の国に入るのはなんと難しい事だと主はいっておられます。人間には出来なくても神にならできるといわれる 。神様ができるのは当たり前じゃないか 、弟子たちをそのように導いてくださるのでなければ結局は意味がない。だからその事をイエズスさまが知らないはずがない。神にはできる、とおっしゃるのは神はそのように人間を導かれる全能の力があるという事です。でも私たちは日々の暮らしの中でどんな富も、知恵に比べれば無に等しいということに気がつく事もありますけれど、いろんな執着から解放されていないということをたびたび経験するわけで、そういう私たちに、ただ執着を棄てなさいというだけではどうも力がないのではないか。もう何年も経験している事です。それでもそういう事を人間は知ていますから言うわけですが、知ている事が必ずしもそのように行えるということではないのです。
この地上では私たちは 、良いことも悪い事もしているなということになります。結局一番の幸せはそういう執着から解放されて本当にひとつに繋がる、それが 『神の国』ということになる訳です。 だからこの地上ではそれは実現しない、完成しないということなんでしょう。でも神はそれを実現する力がおありになる、というのがイエズスさまの約束で、この一人の人に「あなたにかけているものが一つある」といわれた 。表面的にはあなたの持ているその執着しているものをほかの人にもあげなさい、犠牲を払いなさい、というふうに聞こえるでしょうけれど、イエズスさまの本当に教えたかったのは『神にはおできになるということがあなたは分かっていない』という事でありましょう。だから捨てなさい、分けてあげなさいといわれた時この青年は分けられない、という経験をするわけなんです。でもこの人だってどこかではそういう執着から解放されて本当にひとつに繋がって何か犠牲を払って生きて来たと考えられますし、それは私たちも同じです。いろんなところでこの犠牲をはらう時の事を少し思うと気がつく人は気がつくでしょう。
なんでそういう風に出来たのか 、他の時には出来なかったのに不思議だ! やっぱり人間が、この神の国に相応しい生き方をすることができるというのは不思議な事なんだ! 神様がそのようにしてくださっているから! というのが一番相応しい見方なんでしょう。しかしこの地上では私たちはほんのおしるし程度にしかそれはできません。でもそのしるしから神様が世の終りの救いの完成の時に、そのようにできるようにしてくださる、と信じることができる もう一つ私たちにと てしるしになるのは、いろんなものに執着している私たちですけれど、本当に疲れた時、どんなに大事に思っていることももうどうでもいいという経験もあるでしょう。そして終わりの時を迎えたら やっぱり全てを手放して死んでいく訳です。
死ぬ間際まで執着があって苦しむ人もいるかもしれませんけれど、それだって一時の事、結局は全てを手放して神様のもとに行く。だからきっとそれもイエズスさまのおっしゃる、神のお出来になる事、のしるしなんだろうとそんな風に思えたら もう少し死を迎える事も楽に考える事ができるのではないかと思います 。
いずれにせよ、そのように生きられるというのは神様の力なのであってどこまでそれを信じられるかという事ですが 、私たちが信じられないとしても、神様にその力が無くなるわけではないので 、大丈夫ですよ! と 頑張って執着を捨てようとしても、どうせ一時の事で そんなに長続きは出来ない 。いつもいつも良い人でいられるはずがない。でも神様はおできになる。そのことに少しでも安心していただければと思います。
(教会報誌「潮路」 第387号 2021年10月23日発行 巻頭言より)



































































