カトリック逗子教会

【空(から)(4月21日復活の主日ミサ)】


主任司祭 鈴木 勁介



昨日の夜の徹夜祭でも、空のお墓の話がありました。お墓が空だったということは、なかなか象徴的なことで、イエズス様が十字架上に、ご自身を無にされた。そして、空の墓を印として、復活されたことをお示しになったということです。
十字架上に死ぬ、自分自身を空にする、無にするということが、復活の命・本当の命の前提になるという、深い真理がそこにあるわけです。
私たちも、人生70年とか80年生きてくると、そのことが少し、どこかで解るようになるわけです。解るようになっても、やはり自分自身を空にするということは、なかなか出来ないということを日々感じています。人生というのは、結局、自分自身を空にして、その先にある本当の命というものを、探し求めて生きているようなものだということにもなります。十字架を引き受ける者が、復活の命・本当の命を得ると、神様がおっしゃるのですから、ただ私たちに「やってごらん」というだけでなく、そのための力・恵みというものを必ず与えてくださると信じて良いわけなのですが、それも、自分を空にしなければ、なかなか信じられないでしょう。
しかし、そのように招かれる神様ですから、私たちは、人生のどこかで、あるいは終わりの時かもしれません。この自分自身を空にし、神様にお任せすることによって本当の命を生きるということが解る時が来る、必ず来る。
今日は、その本当の命のお祝い。そのための恵みを神様が約束してくださるということを、心に留めておきたいと思います。
(教会報誌「潮路」 第370号 2019年5月1日発行 巻頭言より)