カトリック逗子教会

【食べられてこそ】6月6日(日)(キリストの聖体ミサ説教)


主任司祭 鈴木 勁介



古い契約、神様の救いの契約を、ユダヤ人たちは過ぎ越しの食事をするということを通して、まぁ確認していた。思い起こしていたということですが、イエズス様がご自分を生贄として捧げるというとき、パンと葡萄酒をとって「これが私である。」このようにお示しになった
不思議ななさり方だなぁと思います。
パンと葡萄酒の形のうちに、その神様の救いを思い起こすようにということですけれど。そこで教会の信仰の表現として、このパンを食べ、この血を飲むごとに主の死を告げ知らせるのだという言い方が生まれてきました。
主の死を告げ知らせるというのは、生贄として捧げられる犠牲がそこで捧げられる、その先に復活の命がある。その記念であることも含まれています。
で、私たちも、このパンを食べ、この血を飲むという記念をくり返しながら、実は自分自身がいろんな犠牲を捧げてこの人生を生きているのです。
そうやって、食べられるものとして他の人に、自分自身を提供していく生き方の先に新しい命、本当の命というものがあるということに気が付くはずだと、そのように教えられているわけです。
私たちはもちろん、しばしば自分の犠牲を払うことをつらいことと思ってしまうこともありますし、自分のために何かをしていることも沢山ありますけれど、でも、どこかで自分の命を削って他の人のために生きている。むしろ自分であまり気が付かないところでそういう生き方をしているということです。 そうして、私たちも神の命にあずかっているのだとわかれば大きな喜びです。
分からなくても、希望を持っていいということです。生命を削って生きる恵みは皆それぞれに与えられているのです。無理すると、味の悪い食べ物になってしまいます。
心穏やかにいきましょう。
(教会報誌「潮路」 第386号 2021年6月27日発行 巻頭言より)