カトリック逗子教会

【信仰のめぐみ】


主任司祭 鈴木 勁介



民のことば『実にひどい話だ』というのは、二週間前から読み続けられている『私の肉を食べ、私の血を飲まなければ、あなたたちに永遠の命はない』というイエズス様の話の続きなのです。多くの弟子たちは、その言葉につまずいてしまった。
結局、信じられなければ、その先が見えてこない。何事も始まらないのですが、私たちも、いつも優等生のように信じているわけでもない。
ヨシュア記の話は、民が『私は他の神々に仕えることなど、するはずがありません』と 言っていますけれども、イスラエルの歴史を読めば、何度も神様への信頼を失って、自分たちで何とかしようとした。そういう歴史の繰り返しであったことは、みなさんご存じのとおりです。
 パウロがエフェソの教会へあてた手紙の中で、夫と妻のあり方について語りながら、最後に『私はキリストと教会について述べているのです。』このまとめ方は、なんだか良く解らなくなってしまいますけれど、こういう夫と妻のあり方、そのように考える時代もあったでしょうし、いつの時代も百パーセントの人が同じように考えているわけでもない。夫のあり方、妻のあり方は、やはり時代によって変わっていくようになるんです。
しかし、結局、一番大事なことは、信じられるという繋がりなんでしょう。信じられなければ、いくらでも自己正当化する理由をつけて、共に生きるということを避けることは出来るわけです。
 そういう非常に心もとない信仰を持った人たちで、この神の民、教会は形成されているということを、やっぱりどこかで考えていないと、私たちは錯覚をおこしてしまうこともあるでしょう。そういう頼りない人たちの集まりの中で、イエズス様は、「あなたたちは相応しくない、出て行きなさい」というようなことは仰らないところが、神様の大きさをちょっと感じられるところではあります。
去っていく人はいるでしょう、しかし、神様の方は、生かそうとする、霊の言葉を語る。そういうことを諦めない。
そんな形で、この救いの歴史は進められているということ。ですから、私たちは信頼する、信じるということが大切だということは、改めて言うまでもなく分かるわけですけれども、いつでも努力すれば信じられる、そういう訳でもないし、いつでもきちんと私はやっていると思うと大きな間違いです。
 やっぱり、本当に信じるということは、恵みなんだなあ、その恵みによって、この教会もつくられていくんだと。
 頼りないといえば頼りない。「もうちょっと何とかしなければいけないんじゃないか?」 人間は、そう考えることもありますけれども、神の恵みによって成り立っていることの不思議さをどういうふうに受け止められますか?
(教会報誌「潮路」 第363号 2018年9月1日発行 巻頭言より)